意識とは幻想|無我を感じるには
悟るには
悟りについて私の主観を述べたいと思います。
多分、理解的には受動意識仮説の感覚でいいのだと思いますが、それだけでは悟ったとは言わないのではないかと思います。
体感して初めての悟りだと思っています。
つまり、瞑想のような状態を続けて、クオリアが幻想であると実感することと言いましょうか・・・。
説明が難しいので、錯視を例に伝えたいと思います。
錯視も目が騙されているような感じがしますが、列記として脳が騙されています。
まずは下記の図3をご覧ください。
図3
チェッカーシャドウ錯視という有名な錯視です。
図3の中のAのタイルの色とBのタイルの色が違うように見えますが、本当は同じ色なのです。
「いやー絶対にBの方が薄い灰色でしょ!!」ってなりますよね?
ハイ、これを脳が騙されているといいます(^^♪
この、チェッカーシャドウ錯視で脳が騙されている状態を、『無意識さん』にクオリアを感じさせて騙されている状態とします。
因みに錯視の場合は補助があると簡単に騙されなくなります。
図4をご覧ください。
図4
ハイ、一発でわかりますね(^^♪
補助線恐るべし!!
しかし、クオリアに対して補助線を引くことはできません。
(科学の進歩でこれができれば、誰でもクオリアが幻想だと認識できて無我を感じられると思っています)
(脳に悪戯されるようで、少し怖いイメージですが・・・)
でも、補助線なしでも色が同じだと錯視を突破することができます。
もう一度やってみましょう!!
目の焦点をずらして、全体をボヤっと見るようにしてください。
立体図形だと認識しないように・・・
イメージは右の円柱がただの緑の存在に感じるくらいボヤっと・・・
じゃあもう一度図3を下に出しますので、トライしてみてください。
いきますよ!!
どうでしたか?
AとBが同じ色になりましか?
できない方はこれから先の感覚を伝えにくいので再度トライしてください。
寄り目みたいにするとよいかもしれません。
では、AとBが同じ色に見えたとして話を進めます。
先ほど、AとBが同じ色だと認識したとき、目の機能と脳の機能がボーっとしたような感じがしましたよね?
これって、要するに機能低下なんですね(^^♪
感覚が鋭くなったとかではありません。
図形や、明暗を脳で識別できなくなっただけです。(正確には弱まっただけ)
これでクオリアの幻想を打破するという作戦です。
つまり、クオリアを識別している感覚を鈍くして幻想の先の真実に気がつくといったものです。
恐らく、修行僧が行っている修行や瞑想は、こういった脳の機能を低下させ、気づいていくのだと思います。
悪く言えば機能低下ですが、よく言えば、フロー状態やスポーツ選手のゾーン状態といわれる状態です。
実際、断食や瞑想下でも前頭葉や側頭葉の機能低下は確認されているので、作戦の方向性はあっていると思います。
しかし、断食や瞑想はちょっとハードルが高いので、まだ考えていません。
今考えているのは、前野教授お勧めのアイソレーションタンクです。
私も会員のこころ道さんの写真とHPです→http://www.cocorodo-float.com/
簡単に言うとリラクゼーションの一種で、幅2メートル位の高濃度の塩水が張ってあるタンクの中に入り、光と音を完全に遮断するものです。
高濃度の塩水に浮かぶので、重力もあまり感じなくなるらしいです。
ヨガの修行僧が10年かかって到達できる瞑想状態に到達できるともいわれています。
前野教授はそういった状態には全くならなかったらしいのですが、私もチャレンジしてみる予定です。
チェッカーシャドウ錯視を打破して、同じ色が見えたように、クオリアという幻想を打破したとき、なにを感じるのかはとても楽しみであり、少し不安でもあります。(´・ω・`)
だって、その先に行ったら未知の世界を体験することにもなって、本当に帰って来れるのかな?って思いませんか?(´・ω・`)
私の感じた無我の境地
最後に、私が感じた主観ですが、無我はこんな感じです。というものをできるだけ共有したいと思います。
因みに、この無我は仏陀の教えを勉強したり、前野教授の本と出合ったから、気が付いたというより、自問自答していて、「あれ?意識ってないかも?」と思ったのが最初です。
それから、似たようなこと感じたって人いないかな?って調べていたら、前野教授にたどり着き、その中で、受動意識仮説を知って、釈迦の「無我」を知ったという流れです。
なので、私としては、「あーあの感覚が無我なんだ・・・」という感じです。
最初は「意識が無いかもって気が付いた俺、すごくね?」と思っていました。
前野教授も「受動意識仮説思いつたの自分が初めてじゃない?」と思ったと言っていました。
調べたら、2500年も前に既に言われていたのか・・とちょっとショゲたらしいです。
私はもう少しショゲましたね。
「気が付いただけでもすごい」と思っていたのに、既に科学的に研究して論文まで書いている人がいて、更に2500年も前から言われている有名な話であった、と知ったときは、「上には上がいるものだ・・・」とある意味感服しました。
前野教授もすごいですが、釈迦は科学的知識ゼロから瞑想だけで、この事実に気づくなんて、教祖としてというより、ゴータマ・シッダールタという人そのものを尊敬しましたね。
多分私が自問自答を繰り返しても、「何となく意識は無いっぽい」で止まっていたと思います。
当たり前ですけど、「釈迦スゲーって改めて思いました。」
まあ、相手は仏様なので、私が足元にも及ばないのは当然かもしれませんが、逆に言えば、「意識は無いかも」って気が付いた時点で、足元くらいには及んだのではないかと、前向きにとられています。(^^♪
前置きが長くなりましたが、どんな感覚で、「意識がないかもしれない」と感じたのか、共有します。
ここで一応注意をしておきます。
もし、「意識はない」つまり無我を本当に共有できて感じた場合ですが、(私としてはもちろん嬉しいです)受動意識仮説を説明すると、大きく3つのパターンに分かれるらしいです。
まずは、A、そもそも伝わらず理解してもらえないパターン
次に、B、ポジティブにとらえて「じゃあ無意識を味方にしよう」とチャレンジしようとするパターン(私や前野教授)
最後に、C、ネガティブにとらえて、「じゃあ生きていても意味はないんですね」とニヒリズム(虚無主義)にとらえるパターン
Aの場合は残念ですが、特に問題はありません。Bももちろんありがたいだけです。
問題はCの発想になった場合、それは私も前野教授も、恐らく釈迦も本意ではないという事です。
確かに、無我や受動意識仮説は理屈の上では、虚無になりますから、生きている意味があるのかないのか?みたいな問いだと、「生きている意味はない」という答えにもなるかもしれません。
実際私も、「生きている意味ってないのか・・・」とニヒリズムに近い感覚になるときもあります。
しかし、こんな感覚でとらえて欲しいと思います。
「本当は無いかもしれないが、幻想でも感じているのだから、ラッキー!!」
「本当は無いのに、あるように思わせてくれるなんて体験しなきゃもったいないよ!」
まあ、そもそも共有が上手くいったらの話で、「鈴木の共有、意味がわからん」となればそんな心配はいらないのですがね・・・
また、話がそれましたが、早速始めます。
まず、「自分の意思は自由である」というのであれば、自由な想像をしてみてください。
どんな想像でもいいので、どうぞ自由に想像したことのないもの、想像したことのない状況を想像してみてください。
・・・
・・・
どうでしょう?
なにか浮かびましたか?
例えば、草原を駆け回っているシーンでしょうか?
あるいは、空をスーパーマンのように飛行しているシーンでしょうか?
あるいは、宇宙空間を漂っているようなシーンでしょうか?
いずれにしてもそのシーン、そのイメージって、どこかで見たシーンじゃないですか?
映画とか、写真とか、あるいは、小説を読んでいてイメージした時のシーンとか、(ちなみにその時のイメージもどこかのシーンの応用ですよね)
どうでしょう?
「正確にどの作品、どの映像かは覚えてはないが、確かに自分の100%オリジナルではない」という感じではないでしょうか?
そうなんです、「自由に意識している」っていいますが、
実は本当に無から想像して、今まで一度も想像したことがないシーンやイメージを想像するなんてできないんだと思います。
少なくとも私はできません。(もしかしたら芸術家タイプの人間はこういったことができるのかもしれませんが・・・)
その証拠に、今からいうものを自由に好きなようにイメージしてみてください。
宇宙です。ある惑星にいます。その惑星は気体のみでできています。
そして、その惑星には気体のみの環境で独自に進化した知的生命体がいます。
ハイ、質問です。その惑星とその生物はどのような形をしていますか?
・・・
・・・
どうでしょう?
想像ですが、ボヤっと色がかかった雲みたいな上に、ボヤっとした気体の塊が浮いているようなイメージではないですか?
木星が気体であるという知識を持っている方なら、褐色の縞模様を思い浮かべたかもしれませんね?
おそらく、ほとんどの日本の成人がこのようなイメージを持つのではないでしょうか?
あれ?おかしいですよね?自由に好きなようにイメージしたんですよね?
例えば、その生命体だって、固体でもいいわけですよね?
気体の惑星という定義なだけで、固体の生命体が生まれったって自由ですよね?
生命体の大きさは?恐らく人類と同じ規模ですよね?
惑星より大きい生命体でもいいわけですよね?
併せて考えて、固体の巨大生命体が気体の惑星をすっぽり覆っていて、結果普通の固体の惑星に見えたっていいわけですよね?
逆に惑星も生命体も目に見えないくらい小さくたっていいわけですよね?
なぜ、思うほど自由な発想ではないのか?
それは、無意識が決めているからです。
無意識が、宇宙、星、惑星、気体、生命体、と情報を受け、それによって、無意識がはじき出した答えだからです。
似通うのは、宇宙の知識が映画やSF小説と小中学くらいの理科の知識しかないからです。
この質問をホーキング博士のような宇宙の専門家にすると、きっと我々が想像できないような答えを言ってくることでしょう。
例えば、「そんな環境はあり得ない!!」など・・・(え?仮定の話なのに・・)
いずれにせよ、自由意志ではなく、無意識がはじき出したイメージです。
「出たなその論理!!いや、しかし、その無数のイメージから、このイメージをチョイスしたのは間違いなく自分の意志だ」
と反論が聞こえてきそうですね。
では、その無数っていくつですか?本当に100個とか瞬時に思い浮かびましたか?
せいぜい2,3個のイメージが沸いて、その中からボヤっとチョイスしただけですよね?
しかもそのチョイスって、何となく残った1つのイメージですよね?
そう自問自答していると、
「あれ?確かに自由意志で選んだというよりは、かってに残っただけのイメージのような気が・・・」
なんて気持ちになりませんか?
能動的な意識というより受動的な意識である。と言われると、そんな感じがしませんか?
では、次のステップです。
今、鈴木の説明を聞きながら、考えてるイメージって、
連想ゲームのような数珠つなぎ的にイメージがつながっていませんか?
今の質問「連想ゲームのような数珠つなぎ的にイメージがつながっていませんか?」で考えたであろうことを細分化します。
鈴木だったらこんな感じです。を説明するので、他の方とは違っているかもしれません。
下記の図5をご覧ください
図5
文字の下手さは今無視して、このような情報が瞬時に浮かんできて、結びつけませんでしたか?
何となくそんなイメージになりますか?
では、最後のステップです。
その結びつけって、全部意識して結びつけましたか?
・・・・
・・・
・・・
「あれ?確かにボヤっと結びついたような・・・」
そんな感覚になりませんか?
ハイ、どうですか?
自由意志ってどこかにいましたか?
・・・・・
・・・
あれ?本当だ・・・?
自分で決めたって思っているだけで、結局自然に決まっているじゃん!!
なんだ、この感覚・・・
ドアの向こうに誰かいると思って開けたら、ドアの向こうは誰もいない・・・
それどころか、ドアの向こうには何もない・・・
というか、ドアもない・・・
そんな感覚になりませんか?
私は、それが無我だと思っています。
正確にはちょっとだけ無我。一瞬だけ無我。(と私は呼んでいます)
この感覚がちょっとだけ、一瞬だけでなく、ずっと続くのが無我の境地ではないかと思っています。
つまり悟り・・・
「うーん・・・直感的には、気が変になりそうな感じですけどね・・・」
「自我がないことを100%認識するわけですから、しかもずっと・・・」
「なんというか・・既に死んでいる状態で、この世を見ている感覚というか・・・」
「完全に個が100%感じない状態なので、多分その瞬時に他も感じなくなるのか・・・」
「それが、世界と一体となる感覚なのか・・・」
こればかりは、悟ってみないとわかりませんね(^^♪
どうでしょう?
ちょっとだけ無我、共有できましたでしょうか?
もしできていたら嬉しいですが、虚無感に負けず、ラッキーを感じていきましょう!!