意識とは幻想|昔から言われている
「意識は幻想である。」は昔から言われてきている
結論から言うと、言ったのは仏陀です。
そう、仏教の創始者、ゴータマ・シッダールタさん、通称お釈迦さまです。
先に言いますと、私と前野教授は仏教徒ではありません。なので、宗教的な仏教の話をしたいのではなく、釈迦個人の思想をお話しします。
まず、釈迦は2500年位前の人物だと言われています。
釈迦族の王子として裕福な家庭に産まれたとされています。(釈迦族に産まれたので後世で釈迦と呼ばれたみたいです)
29歳で妻子や地位を捨て出家します。最初は断食のような苦行によって悟りを開くことを目指していましたが、35歳のある日、苦行では悟れないことに気づき、菩提樹の木の下で瞑想しているときに、悟りの境地に至ったと言われています。
その悟りの境地は「無我」だと言われています。
「無我」とは、直訳すると、「私は無い」と「私では無い」のどちらかだとされています。
今でもはっきりとはしないらしいです。あるいは両方の意味だともされています。
さて、この「無我」ですが、何となく、受動意識仮説に似ていると思いませんか?
お坊さんにいきなり、「いいですか、私というものは無く、無我なんですよ・・・」
と言われたら、「いやーそうですか・・・修行されて煩悩をなくされたんですね・・・」
みたいにわからなくて、適当に答えたくなりませんか?
でも、リベット実験に端を発した、意識する前に既に無意識が判断している科学的事実を知った今、
「む、そうか!意識が幻想を見せられているとすると、今意識している『私』というものは無いとも言えるな・・・」
なんて感覚になりませんか?
また、「私では無い」という意味も、受動意識仮説の川の下流の、観測者の存在を知った今、
「そうか!観測しているだけなんだから、ある意味では、『私では無い』んだな・・・」
そんな感覚になりませんか?
「『私は無い』『私では無い』二つの意味でも言っている。という感覚もなんとなくわかる気がする・・・」
そんな感覚になりませんか?
宗教の研究者から言わせると、全然違うよ!なのかもしれませんが、少なくとも私と、前野教授は無我を科学的に説明すると、受動意識仮説が近いと思っています。
因みに、受動意識仮説を読んだ仏教の宗教家の方が、「この説は『無我』の二つの意味が両方の意味であるという証明になるかも」と喜ばれたと前野教授が言っていたので、多分宗教学者が聞いても、全然違う!とはならないと思っています。
実際、仏教で有名な「般若心経(仏陀が弟子のサリープッタに伝えた言葉)」の中に「色即是空、空即是色」という教えがあり、
直訳すると、「色は即(すなわ)ち、是(これ)空(である)」「空は即ち、是色である」となります。
広辞苑で色即是空をひくと、「色とは現象界の物質的存在、そこには固定的実態がなく空であるということ。」とあります。
これだけの文章で考えると「うーん・・現象界ね・・・物質的存在・・・固定的実体ね・・・」となりそうですが、
「クオリアは幻想なんだよ!」と言われると、「あー先ほどの説明ね・・・」ってなりませんか?
つまり、「クオリアは幻想だが、全く無いってわけでもなくて、幻想をクオリアとして感じているんだよ」
って言われると、「あー確かに!!」ってなりませんか?
私は、仏教徒ではないし、宗教家でもないですが、釈迦の言いたいことの方向性は想像がつきます。
私が無いのだから、他者もない、自己と他を分ける必要もない、自分が個ではなく、ただの世界の現象の一部だとすれば、私という存在だけでなく、全ての存在(生き物だけでなく)が影響しあっている、一つの大きな存在である。
のような方向性だと思っています。かってな解釈なので全然違うかもしれませんが・・・
無我を感じるにはについて詳しく見たい方はこちら https://tukushinnbo-suzuki.com/mugawokannjiru/